8020運動の目的は達成されたか

1) はじめに
 歯科医療の原点は欠損歯の機能回復にある。そのために、丈夫で長持ちする修復材料が歯科医療を進歩させると100年以上信じられてきた。しかし、疾患に侵される歯の組織の研究には興味を持ってこなかった。修復の前提となる窩洞・支台歯形成用高性能切削バー(特に最外層にある硬いエナメル質を容易に切削できる)の開発は熱心に行われた。しかも、疾患の予防法を研究する「予防歯科」には歯科関係者の興味は低かった。本来疾患の予防には、疾病罹患メカニズムを理解して対策を考えることが基本である。残念ながら今日の歯科は初めに欠損(疾患)ありきで、何故欠損が生ずるかという疑問を持つ前に、機能回復に目を奪われてきた。歯科医師教育でも修復物による機能回復があたかも歯科医学の目的のように考えられてきた。新しい丈夫な修復材料の開発を求められた筆者は、幸か不幸か歯科の教育を受けていないために、欠損部の機能回復もさることながら、窩洞ができる(う蝕罹患)メカニズムを理解する必要性を感じていた。そして、何故歯科材料の研究が歯科医学の進歩に不可欠なのか、歯科材料の研究を指導してくださった先輩諸先生のアドバイスや文献を100%信ずることができなかった。
 歯科医学の目的は歯のイノチを大切にすることではないか。地球環境保全や温暖化防止が叫ばれている今日、歯のイノチを守る科学も大切である。8020運動の必要性は認めても、「何故歯を失うのか」という疑問を忘れることはできなかった。治療のために必要であるとして、自己再生できない健全な歯の組織を切削することを継続しても良いのか。う蝕予防の対策も科学の目で考え直す必要がある。長年研究が実らないときには、原点に返って発想を転換して研究をやり直すことが成功につながった例は数多くある。天動説の誤りに気付き、地動説を理解した結果、天文学を始め、いろいろな近代科学が生まれ、人が宇宙旅行を実現できるまでになっている。
 
2)エナメル質に欠陥が生ずると歯はイノチを失う
 エナメル質の機能を正しく理解して、エナメル質を切削する処置法は自然の掟(法則)に従っているかどうか、皆さんで考えてみては如何か。エナメル質に欠陥のある歯はそのイノチを失っていくのが自然の掟「科学」なのではないか。エナメル質支台歯と象牙質支台歯への処置では、前者への処置は半永久的であるが、後者へのそれは信頼性に乏しかった。この時点で、酸性になる口腔環境におけるエナメル質と象牙質の安定性を吟味すべきであった。残念ながら当時は両者を区別して考える発想はなかった。予算の振り分け作業で議論された内容を学んで、8020運動は科学的に見て正しいかどうか、国民の健康増進に貢献しているか考え直し、エナメル質を大切にする歯科医学を創造することが早道であるとの結論に達した。
 膨大な債務と歳入不足を抱えながら、歳出の増加を抑制するために、昨年末、平成22年度予算の概算要求案を作るにあたり、仕分け作業が行われた。歯科医療の問題は「8020運動」に対する助成金が削減の対象となった。「8020運動」の意義、効果、助成金の使い道などが厳しく問われた結果であろう。医療費、特に高齢者の医療費負担を削減すべきであるということは財政当局から強く求められている。特に高齢者の医療費負担は増加傾向にある。これは人口の高齢化にまつわる要因の拡大もあろうが、高齢者の健康維持による医療費軽減策もあろうかと考える。特に高齢者の口腔環境が良好であるとは言えない今日、健康な口腔環境を保つ努力はトータルとして、医療費負担の軽減につながると筆者は確信している。80歳で20本以上自分の歯を持つ人の健康状態は良好であるところから、目標として80歳で20本以上の歯を保つようにする推進運動は的をえているかもしれない。何故8本の歯を失ったかその原因を追究して、80歳で28本の生活歯を維持する目標を立てなかったのか。野生動物の世界では歯を失った個体は生存できない。ヒトも努力をすれば歯のイノチを失わずに一生を全うできる可能性を感ずる。
 
3)エナメル質の役割
 不潔な口腔内環境で歯のイノチを永らえるためには、外界と歯の組織の境界部に丈夫なバリアーが必要である。細胞は細胞膜が、私達の皮膚がバリアーとしての機能を持っている。例えば皮膚の三分の一以上重度の火傷を負った患者はイノチの危険にさらされ、患者の皮膚(細胞)を培養した人工皮膚を移植する治療法が実用化される時代になっている(再生医療)。この事実は歯のエナメル質を治療のためと称して切削することは正しい医療行為かどうか、考え直す必要性を示唆するエビデンスである。エナメル質に欠陥のある歯はやがてイノチを失っていくのが自然ではないか。象牙質に達する欠陥がエナメル質にできると、その歯はイノチの危険にさらされ、死んでいく運命が待っているのではないか。知覚過敏症は歯のイノチが危険にさらされている警告と理解すべきである。
 中林らが提唱してきた人工エナメル質(エナメル質のバリアー機能を人工的に代替させる層)で歯のイノチを守れる現実と考え合わせて欲しい。エナメル質に欠陥を生じない限り歯科医院を訪れない患者側の知識の無さを解消する方策(初等中等教育の重要性)も緊急を要する課題である。知覚過敏を訴える歯のイノチを保つことは困難で、イノチを失うが抜髄して歯の形だけ保存するしか救えない。抜髄された失活歯はイノチを失った歯とすべきではないかと考える。抜髄を避けるには、エナメル質に欠陥が生じないようにする日常生活を送る以外対策は無い。高齢者に口腔状態が劣悪な人が多いのは、その人々が治療のためにエナメル質を切削する処置を若い時に受けた結果ではないか。このことが8020運動を推進する動機であったのではないかと中林は考えるようになった。う蝕罹患予防法として、塩基性のエナメル質を安定に保つには、酸性になりやすい口腔内環境を積極的に中性に保つ科学と生活習慣の習得が大切である。学童の検診において「CO」を経過観察とする。経過観察は得策であるが、さらに一歩進めて、COを唾液により修復できる科学を子供達や親に授ける必要性を感ずる。目視できないCOの部分で塩基性のヒドロキシアパタイト(HAP)の再結晶化は可能であるが、HAPの脱灰が起こらない口腔環境(唾液を中性に維持する)を説明したい。そして、ある場合には子供達の生活習慣を考慮して、積極的に介入してう蝕への進展を抑制する指導も求められよう。
 
4)修復物では歯のイノチを守れない
 修復物が弱いから歯科治療の信頼性が低い。これの解決には丈夫な修復材料の開発が必要であるとしてきた近代歯科医学を、酸性になる口腔環境下で、HAPを構成成分に持つエナメル質・象牙質と修復材料ではどれが安定かという科学(化学)で理解し、再検討して欲しい。これには歯科医師の教育課程と歯科医師の卒後研修制度から変革が求められる。歯磨きペーストと歯ブラシで歯を良く磨いてう蝕に罹らないようにしようというこれまでの(予防)歯科も、う蝕に罹患するのは歯であることから一見正しそうに感ずるが、う蝕罹患の化学(メカニズム)、乳酸で酸性を呈する唾液の中和に虎の子である歯の塩基性成分HAPが消費され(解けて歯から無くなり)、中和に消費されたHAPの部分が窩洞として跡に残ることを理解したい。歯を磨くのではなく口腔内の硬・軟両組織の表面を清潔にすることがう蝕予防に大切です。多くの女性はお休み前にお肌をきれいにして寝ます。そのセンスで、口腔内軟組織も歯の表面と同時にお休み前にきれいにして欲しく思うのです。
 う蝕は乳酸によるHAPの脱灰が始まりですが、これを防ぐにはH1N1型インフルエンザを始め多くの感染症予防対策(手洗い・うがい)と同じように、身体への入り口である口の中を清潔にして、乳酸の産生量をゼロにすることが大切です。これはう蝕が感染症であることを意味していません。科学が進歩して感染症は病原菌・ウィルスの遺伝子(DNA)レベルで判定する時代です。乳酸が口の中で作られなければ、これを中和するHAPは不必要になります(窩洞は作られない)。口腔粘膜は再生できますが、歯の組織は再生できません。歯を再生する遺伝子を歯は授かっていないのです。もちろん血流が欠落しているので、う蝕罹患組織の自己治癒も期待できません。疾患組織の治療に薬物などを利用して自然治癒を促進するのが医療の基本です。自然治癒機能を失った組織の治療は当該組織の移植で行われるのが普通です。移植できる健全組織の入手が困難な場合には、人工的に機能を代替して患者を延命する人工臓器を活用する医学が求められます。歯の組織は元々再生しませんから、欠損を修復するには修復物が必要で、修復物で機能回復をするのが限界で、修復物で疾患を治療するという(組織の治癒を期待する)という歯科での説明(教育)には疑問を持ちます(科学不在)。修復物の脱落は修復物が弱いからという説明も、科学から見ると非科学的に過ぎます。ここに8020運動の推進についても、効果があるとすべきかどうか中林は疑問に思うのです。解決策を求めるには正しい科学に基づいた教育と研究が必須であると思います。これが、エナメル質を削る歯科から、エナメル質を守る歯科への転換が必要であるという中林の主張です。
修復物の脱落阻止には酸に分解され易い露出した象牙質を乳酸不透過性のバリアー(人工エナメル質)で守ることが必須です。夜店ですくい上げた金魚はポリエチレンの袋に入れて生かしておけます。同じ原理です。