・化学の知識で歯と口の健康を守る(その2)
 Importance of chemistry to prevent oral diseases

中林 宣男(日本の科学者41巻、2006年3月号より)

エナメル質の大切さ
細胞膜は細胞を、皮膚は身体を守る重要な構造物であると同じように、エナメル質は歯を保護しそのイノチを守る重要な砦であり、これを削り去ることを自然は許さない。ところが、エナメル質を削ることが歯科医療の始まりであると誤解し、効率よく削去する道具(高性能切削器具)で砦であるべきエナメル質を取り去れば、歯のイノチが失われることを現代歯科医学は気付いていない。患者側の無知にも責任はあろうが、治療のためと信じてエナメル質を失うのは患者本人である。自然に逆らわなければ一生自分の歯を使えるように、口腔内という過酷な使用条件に十分耐えられる安定なエナメル質を自然は与えてくれているはずである。野生動物社会には歯科医師はいない。
社会では歯や骨の無機成分をカルシウム或はリン酸カルシウムと言っているが、化学でカルシウムと言うとCaを、リン酸カルシウムと言うと安定なCa3(PO4)2 を意味する。確かにHAはリン酸カルシウムの一種であるが、酸と容易に反応する塩基性の結晶である。硬組織の無機質がリン酸カルシウムではむし歯や骨粗しょう症に罹患しない。エナメル質はHAの結晶の集まりであり、象牙質は水溶性の酸性グルコサミノグリカンなどの高分子電解質がHAとコラーゲンを結び付けた安定な構造物である。エナメル質も象牙質も酸に触れるとHAが反応し解ける。象牙質では脱灰象牙質が残り、HAが占めていたスペースを乳酸などが透過し、HAの結晶が小さいため象牙質の脱灰(むし歯)はエナメル質に比べて早く進行する。脱灰象牙質はコラーゲンが主成分であり、口腔内で加水分解されてむし歯の穴は大きくなり、歯髄(神経)は外界にさらされ痛みを訴えるようになる。この状態までむし歯を放置しておくと、歯には血管がなく自己治癒する機能が備わっていないため、歯科医師がどんなに良質な材料を使っても残念ながらむし歯を治せないのである。外界にさらされた歯髄が感染すると、治療は難しく抜髄になる。神経を取って(抜髄して)さっぱりしたという不注意な発言を耳にするが、歯髄を取られた歯は、歯の形はしていても枯れ木と同じで生きた歯でなく、時間とともに朽ちていく。無髄歯の処置が長持ちしないのは死んだ組織が朽ちていくためである。歯のイノチを大切にして欲しいのである。
エナメル質に穴が開いてしまったら、緊急避難として乳酸と病原菌を透過させない砦(人工エナメル質)を酸に弱い象牙質の表層に設けてむし歯を擬似的治癒に導ければ、歯のイノチを守れると筆者は考えているが、教育、免許、保険など制度面に問題があり普及には時間を要するであろう。